
里山に溶け込む、小さなチーズ工房
広島県三次市、低い山々に囲まれたのどかな里山風景の中に佇む「三良坂フロマージュ」。ウッディな平屋の建物がショップ兼工房になっており、前には丸太のベンチが置かれた広場が広がります。
暖かい季節には山羊と触れ合ったり、ソフトクリームを味わいながら美しい田園風景を楽しめる、穏やかな時間が流れる場所です。
しかし、ここで牧場らしい牛舎を探しても見当たりません。不思議に思っていると、「牛に会いに行きましょう」と案内され、長靴に履き替えて工房の裏山へ。
先週降ったばかりの雪がまだ残るぬかるみを進んでいくと、木立に囲まれた静かな山の中にたどり着きました。
「牛たち、どこかお散歩に行ってるかもしれませんね。」そう話す奥様の声が響いたその瞬間、牛たちが水飲み場にゆっくりと現れました。人の姿をじっと観察したあと、警戒を解いたかのように歩き出す牛たち。
その穏やかな表情とゆったりとした動きは、365日山の中で自由に過ごし、自分の好きな草を食べ、ストレスなく暮らすという、この牧場ならではの育て方を象徴していました。

牛の「幸せ」を最優先にした山地酪農
三良坂フロマージュを立ち上げたのは、創業者の松原さん。大学で酪農を学び、オーストラリアで実際に酪農業に携わる中で、大規模な酪農の効率性と生産性を重視するあまり、牛の健康や幸福が後回しにされている現実に疑問を抱くようになりました。
そこで「牛が本当に幸せに暮らせる環境で酪農をしたい」と考え、帰国後にこの三次市の土地を購入し、自ら開墾を始めました。
そして、松原さんが選んだのが「山地酪農」という放牧スタイル。牛や山羊を広大な山の中に放ち、季節ごとに異なる草を自由に食べさせることで、自然のリズムに寄り添った飼育を実践。放牧による適度な運動や、四季の変化を感じながら過ごすことで、牛たちは健康的でのびのびとした生活を送ることができます。この環境が、ミルクの豊かな風味を生み出しているのです。
牛たちはこの山の中で好きなように動き回り、美味しいと感じた草を食べ、気の向くままに水を飲みに来る。まるで野生のように自由な環境が、この牧場のスタンダードです。
10年の試行錯誤が生んだ極上のチーズ
こだわりの育て方で搾ったミルクを活かすために、松原さんはチーズ作りにも挑戦。フランスへ渡り製法を学びましたが、帰国後に直面したのは、現地と三次市の気候や環境、ミルクの成分の違いでした。フランスで学んだ通りに作ろうとしてもうまくいかず、試行錯誤の連続。今の製法を確立するまでに、実に10年もの歳月を要しました。
三良坂フロマージュのチーズは、そんな長い試行錯誤の末に生まれたもの。使用するのはもちろん、この里山で育つ健康な牛のミルク。牛たちは自分で選んだ草を食べるため、そのミルクはカロチンを多く含み、ほんのりと黄色みを帯びています。
この特別なミルクから作られるチーズは、まろやかで深いコクがあり、口の中でじんわりと広がる味わいが特徴です。

牛も人も幸せに生きるために
三良坂フロマージュでは、すべての牛に「プレッツェル」「パネトーネ」「シナモン」といったパンにちなんだ名前が付けられています。一頭一頭を大切に育てることで、それぞれの個性が際立ち、牛たちが幸せに暮らせる環境を整えることができるのです。
この場所で作られるチーズは、単なる「商品」ではなく、牛の健康や幸福、自然と共生する暮らしが生み出す結晶。松原さんが目指した「牛も人も幸せに生きるための酪農」は、今もこの里山の中で静かに続いています。
そんな背景を持つ三良坂フロマージュのチーズ。その深い味わいとストーリーを、ぜひ一度味わってみてください。