野鳥の楽園・根室の小さなチーズ工房
どこまでもまっすぐ続く北海道の道を、ひたすら車で進む。ふと道の脇に目をやると、そこには野生の鹿。それも一度や二度ではなく、むしろ人よりも鹿に出会うほうが多いのでは、と思うほどです。
同じ景色の中、ふいに現れるのは、絵本に出てきそうな、木造のこげ茶の小さな建物。周囲にさえぎるものは何もなく、どこまでも草地が広がっています。
北海道・根室の端にあるチーズ工房、それが「chikap(チカプ)」です。チカプは、アイヌ語で「鳥」のこと。渡り鳥が飛来し、野鳥たちがさえずるこの地にちなんでつけられました。工房で作られているチーズにも、「シマエナガ」「アカゲラ」など、鳥たちの名前がつけられています。
導かれるように北海道の地に
工房を営むのは、東京から移住してきた菊池さんご夫婦。ご主人は電機メーカー、奥さまは広告業界で働いていたそうです。移住のきっかけは奥さまのお姉さんが北海道で新規就農したこと。気軽に遊びに行ったはずが、「チーズ作り、ちょっと体験してみたら?」と行った先で、いきなり5泊6日の研修がスタート。しかも、その研修先が放牧を中心としたマイペース酪農で知られる酪農家・三友盛行さんの牧場という偶然にも恵まれました。
最初はお姉さんに少々押し切られる形ではありましたが、自然とともにある酪農の暮らしと、そこに集まる人々のキラキラとした眼差しに魅了され、導かれるように、この地での暮らしを決意したそうです。
そのお姉さん夫婦が営む牧場は、工房のすぐ裏手に広がっています。約60ヘクタールの広大な敷地に、30頭ほどの牛たちがのびのびと暮らす環境。夏は放牧地を自由に歩き回り、冬は夏に刈った草を食み、健やかに過ごしています。チーズの原料となるミルクは、そんな自然豊かな環境で育まれています。
理系のご主人とチーズ作りの出会い
ご主人はもともと理系で、設計やものづくりに携わっていた方。管理職の道に進むよりも、現場で手を動かしていたい——そんな思いを抱えていたタイミングで出会ったのが、チーズ作りだったそうです。
見せてもらった専門書には、びっしりと書き込まれたメモと、何度もページをめくった跡。そこからは、チーズ作りへの熱意と、ひたむきに研究に打ち込む姿が目に浮かびます。
自然と向き合う、試行錯誤の日々
そうして始まったチーズ作りは、最初の頃は試行錯誤の連続だったそうです。
自然相手のものづくりは、思うようにいかないことばかり。牛の体調やその日食べた草の種類など、ちょっとした違いでミルクの味は日々変わってしまうのだとか。「これが原因だから、こうすれば解決!」といった、サラリーマン時代のようなロジカルな対応がなかなか通用しない——そんな難しさもあったといいます。
不確定要素だらけの毎日の中で、自然に対して手・目・耳を向け、感覚を少しずつ研ぎ澄ませていく。そうやって、自然のリズムにそっと呼吸を合わせるように、チーズ作りに取り組んできたそう。
「そういうミルクの違いも、楽しんでもらえたら」そう語るご主人の姿が自然体で印象に残りました。チカプのチーズには、そんな自然との対話がそのまま詰まっているように感じます。
10年かけて育てた、チーズと暮らし
工房を始めた当初は、思うように売れず、在庫がたまってしまう時期も。それでも歩みを止めることなく試行錯誤を重ね、開業から10年が経った頃、ようやく「作りたい」と思い描いていたハードチーズが形になりはじめたといいます。研究熱心なご主人と、広告の仕事で培った感性を生かしてデザインや発信を担う奥さま。それぞれのキャリアを持ち寄り、自然豊かな根室の地で、自分たちらしい理想の工房を少しずつ形にしてきたのだと感じました。
訪問時は定休日だったのですが、それでも次々とお客さんが訪れていたのが印象的でした。工房から届けられる「chikapノート」には、チーズについてだけでなく、お子さんの成長や野鳥の観察日記など、暮らしのひとコマが丁寧に綴られています。根室の地に根を張り、日々を楽しんでいる姿が、そこからも垣間見えました。